ずっと気になっていた為替の歴史について調べてみました。
為替の歴史は、なんと鎌倉時代まで遡ります。
今日、為替と言えばFXですが、元々は米と現金を交換する手形として利用されたのが由来です。
「為替」という言葉が生まれたのは鎌倉時代、
「かわせ(為替)」の語源は「交わす」(交換する)の連用形「かわし」と
呼ばれていたものが変化したものになります。
日本における為替取引は、1048年(永承3年)の東大寺文書にみられる
“替米(かえまい)”が最も古いとされています。
随分古い書物ニャ
当時、米が一般的な交換手段として広く用いられており、
寺社の荘園は都から遠く離れた遠隔地に位置していたので、
年貢物を運搬するにはかなりの手数や費用を要し、盗難に遭うおそれも高いものでした。
そこで、替銭屋や割符屋と称する業者に現金を払込み、
割符を発行してもらい相手に送金したのですが、
その際に権利証書として発行されていたのが「為替」です。
当時は公的な保証はなく、商人相互の信用関係によって成立していたのですが、
江戸時代に入ると寛永年間に幕府の公認を受けた制度となり、大きく発達しています。
例えば、江戸の商人が大坂の商人に代金を支払う場合、
現金を直接届けるのでは盗難などの危険が伴うので、
まず両替商に代金を渡して為替手形(支払いを依頼した証書)を発行してもらい、
その手形を受取った大坂の商人が指定の両替商に持って行って
代金を受取る、という具合です。
このように、元々の為替は、売買代金の受払いや資金の移動を現金を
輸送することなく行う手段として生まれたのでした。
【黒船来航と為替取引】
今日のように円とドルを交換するような為替取引が始まったのはいつでしょうか?
それは、アメリカが日本へ「黒船」で来た幕末、
1854(安政元)年に日米和親条約を結んだあたりからになります。
有名な黒船の来航ですね
その後の交渉で、1856(安政3)年9月9日、米国領事タウンゼント・ハリスと幕府との間で
1ドル=0.75両(1両 = 1.33ドル)と決まりました。
しかし、日本と外国の金銀交換比率には大きな差があり、
金の含有量で見ると1両(天保小判)=4ドルだったため大量の小判が流出、
その結果、金の含有量を減らした万延小判が発行されて、
1871年頃には1両=1ドル程度となっています。
では、当時の1両は現在のいくらぐらいなのでしうょう。
江戸時代の貨幣価値を現在のものに換算するのは大変困難になっております。
それは、当時と現在では、世の中の仕組みや人々の暮らし向きが全く異なっているからです。
一応の試算としまして、1両を米価、賃金(大工の手間賃)、そば代金と比較してみると、
米価は1両=約4万円、賃金で1両=30~40万円、そば代金では1両=12~13万円となります。
ですので、そば代金からすると1両=12~13万円ぐらいとなります。
また、米価から換算した1両の価値は、江戸時代の各時期において差があり、
初期の頃で10万円、中~後期で3~5万円、幕末頃は3~4千円となっております。
【日本円の誕生】
1871(明治4)年5月10日、「新貨条例」(明治4年太政官布告第267号)
が公布され「円」が正式に使われるようになりました。
これまでの1両は名目上1円と定められ、1ドル=1円強でドル円相場がスタートしています。
一方で金の流出は続いており、1877年に発生した西南戦争の戦費を賄うため
不換紙幣を大量に発行したことからインフレが始まり、
同時に円安も進行し1894年頃には1ドル=2円程度となりました。
当時は「100円当たり対米○○ドル」と表記していて、
1894年に100円あたり対米50ドルでしたので、「2円=1ドル」ということになります。
(※1893~1941年の為替データ -日本銀行金融研究所)
1897年になると、日露戦争で得た賠償金を準備金として
本格的な金本位制を確立、その後20年間は1円=2.005ドル(平価)で安定しています。
しかし、1914年に第一次世界大戦が起きると景気が悪化、
戦後不況と1923年の関東大震災による輸入超過から、
円は1円=2.5ドル前後に下がりました。
1931年にイギリスが金本位制を停止、日本も政権交代の際に金本位制から離脱すると
一気に円が下落し、金輸出再禁止直前に1ドル=2.025円だったドル円相場は、
1932年12月には1ドル=4.819円と1年間で60%下落。
1930年代の為替変動は、日本にとってプラザ合意後を除けば
史上最大の変動率で、その結果大幅な円安になり物価が上昇しました。
1940年台に入ると1ドル=4円程度で落ち着きます。
その後太平洋戦争に突入していくことになります。
【敗戦後に大きく変動】
太平洋戦争で敗戦すると急激な円安となり、
直後の1945年9月は1ドル=15円、その後の急速なインフレによって
1947年3月に1ドル=50円、
1948年7月に1ドル=270円、
1949年には1ドル=360円になりました。
凄いドル高ニャ!
この1ドル=360円については、1949年4月2日に日本の経済活動を監督していた
ジョゼフ・ドッジが1ドル=360円の政策を日本政府に通達したことによります。
アメリカが日本の経済を分析してみると、
1ドル=320~340円くらいが妥当だったのですが、
当時アメリカを中心とする資本主義とソ連を中心とする社会主義が対立。
中国や北朝鮮が不安定化するなか、そのちょうど中間にある日本には
1日も早く経済復興してもらう必要があったため、
想定よりもより円安にした1ドル360円になりました。
そして、実際に1ドル360円を実施してみると
思ったより安定効果が現れたため、以降永らくレート固定、
1971年8月まで360円時代が続くことになります。
【1ドル360円から変化の変遷】
その後の世界情勢の変化で何度か通貨の混乱する場面はあったものの、
1ドル360円をかろうじて保っていました。
しかし、1960年ごろから米国の国際収支の慢性的赤字が問題視され、
ドルの流出と過剰なドルの累積からドル自体が弱体化しつつありました。
1971年に入ると、米国の国際収支は貿易収支が
戦後はじめて赤字に転落するなどますます悪化の度を強め、
1973年には世界的な通貨危機が発生。
イタリア・リラが二重相場制に移行したことをきっかけに
米ドルの売りが活発化しています。
米国は、景気拡大を目的とした3回の公定歩合引き下げを実施したのですが、
その結果として欧州諸国との金利差が拡大し短期資金の投機的な移動を誘発。
西ドイツはマルクを変動相場制に移行しました。
【ニクソンショック】
このような国際通貨不安が続く中で、
ニクソン米大統領は1971年8月に米ドルの金交換停止、
10%の輸入課徴金の賦課などを内容とする新経済政策を発表しました。
これに伴い、欧州諸国変動相場制に移行、
日本も1973年4月に変動相場制に移行しています。
変動相場制の導入直後に1ドル=260円台まで円高が進みましたが、
1973年秋のオイルショックで1ドル=300円近辺まで戻り、
1976年末頃までしばらく安定の時代となりました。
1977年になると、不況の影響で円高が進みはじめて1ドル=200円を突破、
1978年末には一時1ドル=180円を突破しています。
【カーター政権によるドル防衛策】
その1978年末にあたる11月、米カーター大統領がドル防衛策を発表しました。
ドルの防衛として、日本や西ドイツを含む先進諸国と提携し
為替市場への協調介入やIMFからおよそ300億ドルの介入資金の調達、
公定歩合を8.5%から9.5%へ引き上げ、預金準備率を2%引き上げることなどを宣言。
これにより、1日で10円も円安ドル高が進むなど大幅な変動が起き、
数年で1ドル250円を突破しています(カーターショック)。
他にも、イラン革命の進行によるオイルショック、
ソ連のアフガニスタン侵攻でドル高が加速、
1980年前半は200~250円で推移することになります。
【プラザ合意】
このように「強いドル」を打ち出していた米経済政策ですが、
今度は逆に行き過ぎたドル高に苦しむことになります。
高金利によって財政赤字が累積するとともに貿易収支の赤字も増加し、
「双子の赤字」と呼ばれる状態に陥ったことで、
アメリカ国内では保護主義の動きが強まってしまうのです。
ニクションショックの再発を恐れた先進各国は、
自由貿易を守るためにドル安路線にはしることに合意、
アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、そして日本の先進5ヶ国が
外国為替市場に協調介入することになりました。
1985年9月22日に行われたこの会議は、
ニューヨークの「プラザホテル」で開かれたことからプラザ合意と呼ばれています。
そして、合意に基づき各国がドル売りに乗り出すと、
合意前に1ドル=240円台だったドル円レートは年末に1ドル=200円台へ、
さらに1987年末には1ドル=120円台となり、今度は日本経済が円高不況に陥りました。
この時、日銀が低金利政策などの金融緩和を打ち出したことで
不況は一時的だったのですが、投機が加速し空前の財テクブームとなり、
結局は1980年代後半のバブル経済やその崩壊による
長期間の景気低迷につながることとなります。
【ルーブル合意】
プラザ合意後のドル安があまりにも急激すぎたために混乱が生じ、
今度はドル急落を食い止めることが必要となりました。
1987年2月に再び主要国の大蔵大臣および中央銀行総裁が
フランスのルーブル宮殿に集まり、日本の内需拡大や米国の財政赤字縮小などが合意され、
為替相場については「1ドル=153円50銭」を中心とした水準に
安定させる旨の声明を発表しています(ルーブル合意)。
しかし、各国の協調が十分ではなかったためドルの下落を止めることはできず、
同年12月のクリスマス合意でG7の協調が再び確認されるまで、
1ドル120円台の水準まで売られ続けました。
【日本のバブル崩壊と円高】
1990年に入ると、日本のバブル景気に陰りが見え始め円高が進行、
1994年にはじめて1ドル=100円の大台を突破し、
1995年4月19日の午前9時過ぎには79円75銭と
瞬間1ドル=80円割れを記録したことが話題になりました。
バブルの崩壊もよく耳にしますね。
このように、あまりにも急激な円高に危機感を強めた先進主要国は
1995年4月にG7をワシントンD.C.で開催し、
「円高・ドル安」の水準が行き過ぎであるとの声明を発表しています。
また、大蔵省が「対外投融資促進策」を打ち出すなどの円安対策を示し、
為替市場でも主要各国が円売りの協調介入を実施したことから、
円は同年9月には1ドル=100円水準まで値を下げ、
その後はおおむね100円前後での推移が続いて今日に至ります。
【1998年からFXがスタート】
その後、FXが誕生したのは、1998年4月に「外為法」、「外国為替及び外国貿易管理法」が
改正されて、個人でも為替取引が行えるようになったのがきっかけです。
ここで、ついにFXのスタートです!
終戦後の1949年に施行された外為法では、
資本の海外流出を避けるために外国との経済取引を原則として禁止しようと、
外国為替公認銀行にのみ為替取引を許可する形を取っていました(為銀主義)。
その後1980年の改正によって、対外取引を「原則自由化」して
貿易等に関する為替取引は認められましたが、
実際に取引できるのは銀行などの金融機関だけで、
銀行の外貨預金や外貨MMFを除けば、個人が為替取引を行うことはできませんでした。
ところが、経済のグローバル化や日本国内の金融業立ち遅れ感から、
日本版金融ビックバンの第1弾として、改正外為法が施行されたのでした。
これにより為銀主義は撤廃され、「原則自由化」から「完全自由化」になって、
現在のFXが誕生しました。
さらにFXは、インターバンク市場(銀行間市場)で行われている
取引単位「100万ドル」の外国為替取引を、一般の投資家にも参加しやすいように
「1万ドル」などへ小口化して、数万円程度の証拠金でも行えるようにした金融商品なのです。
長々と読んでいただきまして、ありがとうございました。
このブログを書いていて本当に勉強になりました。
FXの歴史は、浅いのニャね~
そうだね、でもこのFXトレードにはとても夢が持てます。
コツコツ頑張って、絶対に成功者を目指しましょうね!!
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